人気ブログランキング | 話題のタグを見る

気楽に行こう okirakukun.exblog.jp

三日坊主が気楽に綴っていきます


by okiraku_meisou

柏の城跡…そして柳瀬川で見たUMA??

雨も止んで暖かくなったので、志木市の「柏の城跡」を見に行ってきました。
城跡といっても何も残っていない…
小学校の正門横に、碑柱が立っているだけ…
柏の城跡…そして柳瀬川で見たUMA??_a0150374_1610454.jpg

400年以上前に「柏の城」があった場所は、小学校になっていました。
柏の城跡…そして柳瀬川で見たUMA??_a0150374_1616138.jpg

説明板に、こう書かれていました。
『 この辺一帯を遺跡とする柏の城は、木曽義仲の子孫で武蔵屈指の豪族大石氏が室町中期に造った居館である。そして京都聖護院の門跡道興准后が文明18年(1486)から翌年にかけて関東各地を巡歴した際の紀行歌文集『回国雑記』に見える「大石信濃守といへる武士の館」とされている。ここで言う大石信濃守とは大石顕重のことで、本城は現八王子市の高月城だった。
 顕重以後の城主は定かではないが、大永年中(1521~1525)に修築が行なわれ、本丸(運動場のほぼ中央)、西の丸(長勝院境域)、二の丸(わき道に沿った校地の一角)、三の丸(前の市道を背にする一帯の宅地)を備えるに至ったと伝えられる。
 その後、大石氏は北条氏康に服属したが、天正のころは、大石越後守直久が城主であった。直久は顕重の曽孫大石定仲の長男で、天正9年(1581)から北条氏の指令に基づき、駿河国獅子浜城の城代となっていた。柏の城が豊臣勢に攻められて落城したのは、武蔵国のほかの諸城と同じ時期の天正18年(1590)。徳川家康が江戸へ入府すると、家臣福山月斎が新しい地頭として、この城地に居住した。』

小学校の西側には「柏の城西の曲輪跡」がありました。
柏の城跡…そして柳瀬川で見たUMA??_a0150374_16172348.jpg

説明板にはこのような説明が書かれていました…
『 柏の城は、関東管領山内上杉家の重臣大石氏一族の戦国初期からの居館といわれていますがその築城年代などは一切不明です。
 江戸時代の享保12年(1727)から同14年にかけて舘村(現在の志木市柏町・幸町・館地区付近)の名主宮ヶ原仲右衛門仲恒により執筆された「舘村旧記」によると、志木第三小学校地に本城が、その東側に二の曲輪、市道をはさんだ南側に三の曲輪が、そしてこのあたりには西の曲輪があったとされています。
 このあたりはかつて「亭の台」ともよばれ、在原業平の座所として設けられた館の跡であるという伝説も伝わっており、古来よりこの地域を統括するような有力な人物と関係するなんらかの施設があったらしいことが推測できます。
 また、館村八景の1つに「亭の下の夕照」とあるように、この付近は、秩父連山から富士山まで眺望できる景勝の地としても有名な所でした。』

曲輪跡で見つけた“ナズナ”の花と名称不明の花
どちらも見逃してしまうような、数mm程の小さな綺麗な花でした。
柏の城跡…そして柳瀬川で見たUMA??_a0150374_16215581.jpg

柏の城跡…そして柳瀬川で見たUMA??_a0150374_16221156.jpg


更に西側に行くと柳瀬川です。
自転車で土手を走っていると何やら不思議な物体が川の真ん中を…(・・) !!
UMA!?か…
柏の城跡…そして柳瀬川で見たUMA??_a0150374_16303373.jpg

by okiraku_meisou | 2010-12-22 16:50 | 散策